FAZER LOGIN第3話 俺がお前を捨てた?
翌朝、美月は目覚まし時計が鳴るより先に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋の中には夜の冷たさが少し残っている。隣の布団では陽翔が毛布を蹴飛ばし、片足だけを外へ出して眠っていた。
いつもの朝だった。
美月はそう思いたかった。
昨日、病院で七年ぶりに神代怜司と再会したことも、彼が陽翔の顔を見て立ち尽くしたことも、「その子は、俺の子か」と聞かれたことも、眠って起きれば少し現実味を失っているのではないかと期待していた。
けれど、そんな都合のいいことは起きなかった。
目を開けた瞬間から、昨日の出来事は一つ残らず頭の中に戻ってきた。
怜司の顔。
六歳という年齢を告げたときの表情。
そして最後に見せた、何かを疑い始めた目。
美月は布団から抜け出し、陽翔へ毛布を掛け直した。
寝顔だけを見れば、まだ幼い。
眠っているときくらいは何も気にせず、何も考えずにいてほしいと思う。
「……面倒なことになったな」
誰にも聞こえない程度の声で呟き、台所へ向かった。
冷蔵庫から卵を取り出し、朝食の準備を始める。フライパンを温めながら昨日の会話を思い出してしまい、卵を一つ割り損ねて殻を落とした。
「もう」
箸で殻を拾っているうちに、自分が妙に腹を立てていることに気づく。
怜司に対してなのか。
七年前の自分に対してなのか。
それとも、たった一度再会しただけで生活のリズムを乱されている今の自分に対してなのか。
どれも少しずつ当たっている気がした。
◇
「ママ、今日もコーヒー二杯?」
着替えを済ませた陽翔が、椅子へ座りながら聞いた。
「今日は一杯。ちゃんと見てて」
「じゃあ昨日より元気なんだ」
「あなた、最近ママのコーヒーの量で健康管理してない?」
「だって分かりやすいから。二杯のときは疲れてるし、三杯だとちょっと怖い」
「三杯飲んだことあった?」
「去年、仕事が忙しかったとき」
そこまで覚えているらしい。
美月は味噌汁を並べながら苦笑した。
「子供はもっと子供らしく、好きなアニメとかゲームのこと覚えてなさい」
「それも覚えてるよ。ママのことも覚えてるだけ」
さらりと言われ、美月は少し言葉を失った。
この子は、こういうところがずるい。
本人にそのつもりはないのだろうが、ときどき何気ない一言で母親の胸を刺してくる。
「……はい。卵焼き食べて」
「いただきます」
陽翔は箸を持ち、しばらく黙って朝食を食べていた。
昨日の男について聞いてくるかもしれない。
美月はそう警戒していたが、陽翔はすぐには話題にしなかった。
そのことに安堵しかけた頃、味噌汁を半分ほど飲んだ陽翔が、いかにも思いついたという顔で口を開いた。
「昨日の人、テレビに出てる人だった」
美月の箸が止まった。
「……調べたの?」
「調べてないよ。朝のニュースで出てた。病院に新しい機械を入れるって」
「そう」
「すごい会社の社長なんだね」
「みたいね」
「ママ、本当に昔の知り合いなの?」
ずいぶん遠回りをしてから核心へ来る。
美月は卵焼きを一口食べてから答えた。
「本当よ。昔、少し仲が良かったの」
「少し?」
「子供がそんなところを細かく聞かないの」
「昨日は『好きとか嫌いだけじゃ説明できない人もいる』って言ってたから、ちょっと気になっただけ」
自分が言ったことを正確に覚えられている。
美月は額を押さえたくなった。
「陽翔」
「はい」
「気になるのは分かる。でも、大人にも話す準備ができてないことがあるの。だから、もう少しだけ待ってくれる?」
少し真面目な口調になると、陽翔も箸を止めた。
「ぼくが聞いたら、ママ困る?」
「ちょっとだけね」
「じゃあ、今は聞かない」
陽翔はそれだけ言うと、また卵焼きを食べ始めた。
あまりにも簡単に引いたので、美月のほうが申し訳なくなる。
「ごめんね」
「何で謝るの?」
「ううん。何でもない」
「大人って本当に面倒くさいね」
「昨日もそれ言ったでしょう」
「昨日より分かった」
陽翔が真面目な顔で頷く。
美月はとうとう笑った。
笑いながら、胸の奥では別のことを考えていた。
いつまで「待って」と言えるのだろう。
昨日までは、陽翔に父親のことを話す日はまだ先だと思っていた。
必要になったときに、自分の言葉で少しずつ説明すればいい。
そう考えていた。
けれど怜司が現れたことで、その時間は突然縮められてしまった。
◇
陽翔を学校へ送り、自分の職場へ向かおうとした美月は、マンションのエントランスを出たところで足を止めた。
見慣れない黒い車が、少し離れた場所に停まっている。
高級車に詳しいわけではない。
それでも、自分の住む築年数の古いマンションの前には明らかに不釣り合いだということだけは分かった。
嫌な予感がした。
そして、その予感は当たる。
後部座席のドアが開き、怜司が降りてきた。
昨日のようなスーツではなく、今日は濃いグレーのジャケットに黒いシャツを合わせている。仕事へ向かう途中なのかもしれないが、美月にはそんなことを気にする余裕はなかった。
「……何してるの」
思った以上に低い声が出た。
「話をしに来た」
「ここまで?」
「連絡先を知らない」
「だからって家を調べたの?」
怒気を含ませると、怜司は一瞬言葉に詰まった。
「病院の記録を勝手に調べたわけじゃない。昨日、お前が帰るときに乗ったタクシーの会社を見て、以前の住所から——」
「十分怖いわよ」
最後まで聞く気になれなかった。
美月は周囲を見回した。
幸い、近所の住民はまだ多く出ていない。だが、こんな車と目立つ男が長時間立っていれば、いずれ誰かが気づく。
「ここで話したくない。近所に変な噂を立てられたら困るから」
「じゃあ場所を変えよう」
「そういう意味じゃなくて、帰ってほしいの」
「昨日の話を途中で終わらせたままにはできない」
「私は終わってる」
「俺は終わってない」
また短い押し問答になりかけ、美月は唇を噛んだ。
昨日と同じことを繰り返すつもりはない。
「怜司、あなたが気になるのは分かる。でも私は仕事があるし、陽翔にも生活がある。七年ぶりに会った翌朝から家の前まで来られて、はい分かりました、全部話しますなんてできない。少なくとも、私の都合を無視して進めないで」
名前を呼んでしまったことに、言ってから気づいた。
怜司も気づいたようだったが、そこには触れなかった。
「分かってる。だから、今日は無理に長く話すつもりはない。ただ、昨日の夜ずっと考えて、一つだけ確認しないと先へ進めないと思った」
「何を?」
「七年前、俺がお前を捨てたと思ってるのか」
美月の顔から表情が消えた。
予想していなかったわけではない。
けれど、真正面から聞かれると、七年前の病院の冷たい廊下が一瞬にして戻ってきた。
何度訪ねても会えなかった。
受付で名前を告げても、病室へ通してもらえなかった。
最後には、怜司自身がもう会いたくないと言っていると伝えられた。
それでも信じられず、手紙を書いた。
返事は来なかった。
そして、神代家の人間から渡された別れの手紙。
丁寧な字で書かれていた。
もう終わりにしたい。
君とは一緒にいられない。
それ以上連絡しないでほしい。
何度読み返しても、内容は変わらなかった。
「……思ってるんじゃない」
美月は静かに言った。
「捨てられたのよ」
怜司の眉間に深いしわが寄った。
「何を根拠にそう言ってる?」
「その言い方、本気?」
「責めてるんじゃない。俺には分からないから聞いてる」
「分からない?」
美月は思わず笑った。
乾いた笑いだった。
「あなた、本当に何も知らないのね」
「だから昨日からそう言ってる」
「そんなはずないでしょう」
「俺からすれば、お前の言ってることのほうが分からない」
怜司も苛立ちを隠せなくなっている。
それでも声を荒らげないのは、通勤時間の住宅街だからだろう。
「俺は事故から目を覚ましたあと、お前が俺とは終わりにしたいと言ってると聞いた。連絡しても返事がない。家にもいない。大学時代の友人に聞いても居場所が分からない。そのうえ、家から金を受け取って出ていったとまで聞かされた。あの状況で、俺に何を信じろっていうんだ」
美月は、しばらく何も言えなかった。
今、彼は何と言った。
金を受け取って出ていった?
「……誰から聞いたの」
「母からだ」
「沙耶さんが?」
「ああ」
美月の中で、何かが嫌な音を立ててずれた。
神代沙耶。
怜司の母親。
美月は彼女と何度か会ったことがある。
丁寧な人だった。
笑顔を崩さず、それでも美月を神代家にふさわしい相手とは見ていないことが、言葉の端々から伝わってくる人だった。
事故のあと、美月が病院を訪ねたときにも会っている。
そのとき沙耶は言った。
怜司はあなたに会いたくないと言っている。
息子の将来を考えて、もう身を引いてほしい、と。
「待って」
美月は額へ手を当てた。
「今、あなたは、私があなたの家からお金をもらったって言ったの?」
「そう聞かされた」
「いくら?」
「具体的な額までは知らない」
「知らないのに信じたの?」
「信じたくなかったから確認した。でも、お前には連絡がつかなかった。家にもいなかった。事故のあと俺はしばらく自由に動けなかったし、その間に周囲の人間から同じ話を聞かされた」
「同じ話って?」
「お前は俺との関係に疲れていた。神代家と関わることにも嫌気が差していた。だから金を受け取って離れた、と」
美月の手が冷たくなっていく。
七年間、自分が怜司を責め続けてきたのと同じ時間、怜司もまた美月を責めていたのか。
そんなことがあるのだろうか。
「違う」
美月の口から、考えるより先に言葉が出た。
「私はお金なんて一円も受け取ってない」
怜司の表情が変わった。
「本当に?」
「こんなことで嘘をつく必要ある? 私はあなたのお母さんから、お金なんて受け取ってない。むしろ——」
そこで美月は口を閉じた。
「むしろ何だ」
怜司が一歩近づきかけ、昨日のことを思い出したのか途中で止まった。
美月はすぐには答えなかった。
もう隠し続ける意味がない。
少なくとも、ここまで話してしまったなら、一部だけでも言わなければ会話がつながらない。
「私は何度も病院へ行った」
怜司が目を見開いた。
「事故のあと?」
「そうよ。あなたが意識不明だと聞いて、最初の日から何度も行った。目が覚めたって聞いてからも行った。でも会わせてもらえなかった」
「誰に?」
「病院の人にも止められたし、あなたの家の人にも止められた。最後には沙耶さんから、あなた自身が私に会いたくないと言っているって聞かされた」
「俺が?」
「そう」
「そんなこと言ってない」
怜司は即座に否定した。
その速さに、美月の胸がざわついた。
「でも、私はそう聞いた」
「俺は事故から目を覚ました直後、お前のことを聞いた。何度もだ。会いたいって言ったし、連絡を取りたいとも言った。それを止めた記憶なんて一度もない」
「じゃあ、私が嘘をついてるって言いたいの?」
「違う。そうじゃない」
怜司は声を落とした。
「今、初めて本当に何かがおかしいと思ってる」
美月は黙り込んだ。
朝の道路を車が走り抜ける。
近くの交差点で歩行者用の信号が電子音を鳴らし、制服姿の学生たちが笑いながら通り過ぎていった。
世界は何事もなかったように動いている。
美月と怜司だけが、七年前の時間へ取り残されていた。
「……手紙は?」
美月が尋ねた。
「何の手紙だ?」
その答えだけで、胸の奥が冷たくなった。
「私、あなたに手紙を書いた。病院へ持っていったの。会わせてもらえないなら、せめて渡してほしいって頼んだ」
「受け取ってない」
「一度だけじゃない」
「一通も知らない」
「じゃあ、あなたが私に送った手紙は?」
「俺から?」
「別れたいって書いてあった手紙」
怜司の顔が完全に強張った。
「俺はそんなもの書いてない」
「……嘘」
「嘘じゃない」
「だって、ちゃんとあなたの名前で——」
「書いてない。事故のあと、お前に手紙なんて一通も書いてない」
美月の足元がふらついた気がした。
もちろん実際には立っている。
けれど、七年間、自分が立っていた地面のほうが動いたような感覚だった。
「あの手紙は……あなたの言葉じゃなかったの?」
「内容は?」
「もう終わりにしたい。私とは一緒にいられない。これ以上連絡しないでほしいって」
怜司は目を閉じた。
数秒後に開いたとき、昨日まで美月へ向けていた疑いとは別のものが宿っていた。
怒りだった。
ただし、美月へ向けられたものではない。
「俺はそんなこと、一度も思ってない」
「でも私は、それを読んだのよ」
「分かってる。だからおかしいと言ってる」
「じゃあ何? 誰かが勝手に書いたっていうの?」
「可能性はある」
「簡単に言わないで」
美月の声が震えた。
「私はあの手紙を読んで、全部終わったと思った。あなたに会いたいって何度も頼んで、それでも会えなくて、最後にあれを渡されて……それでも信じたくなかったのに、返事も来なかった。だから、あなたが本当に私を捨てたんだって思ったの」
怜司は何も挟まなかった。
美月は止められなくなっていた。
「そのあと妊娠してるって分かって、私、本当にどうしたらいいか分からなかった。でも、あなたには言わなきゃいけないと思った。嫌われてても、別れたいって言われても、それだけは伝えなきゃいけないって」
そこまで言ったところで、美月ははっとした。
言いすぎた。
陽翔のことまで、ほとんど答えを出してしまっている。
怜司も同じことに気づいた。
彼の顔から、怒りも困惑も一瞬消えた。
「……今、何て言った?」
美月は唇を噛んだ。
「美月」
「その話は——」
「妊娠が分かったあと、俺に言おうとしたって言ったよな」
怜司の声が掠れている。
美月は顔を背けた。
もう誤魔化せない。
けれど、ここで「陽翔はあなたの子」と告げるのは違う気がした。
そんな大事なことを、マンションの前で、通勤途中の人々が通り過ぎる場所で言いたくなかった。
「今日はここまでにして」
「ここまでって、お前……」
「私も頭が追いついてない。あなたが言ってることが本当なら、七年前に私が知ってたことと、あなたが知ってたことが全部違う」
「ああ。俺もそう思ってる」
「だったらなおさら、今すぐ答えを出さないで。私たち、昨日までお互いを七年間恨んでたのよ。そんなもの、一時間話したくらいで整理できるわけないでしょう」
怜司は何か言いかけた。
けれど、美月の顔を見て思い直したようだった。
「……分かった」
「本当に?」
「今すぐ問い詰めるのはやめる。ただし、もう何もなかったことにはできない」
「そんなの私だって分かってる」
「それと」
怜司は少し迷ってから続けた。
「昨日、陽翔くんのことを聞いたとき、俺は自分のことしか考えてなかった。もし俺の子なら、どうして知らなかったんだって。それしか頭になかった」
美月は黙って聞いた。
「でも今の話が本当なら、お前も一人で同じくらい混乱してたんだよな。俺が捨てたと思って、その状態で妊娠まで分かって……」
「同情はいらない」
「してない」
怜司の返事は早かった。
「少なくとも、同情って言葉で済ませたくない。何があったのか知らないまま、自分だけ被害者みたいに考えてたことを認めてるだけだ」
美月は返事をしなかった。
昔の怜司なら、自分が悪い可能性を認めるまでにもっと時間がかかったかもしれない。
今の彼が変わったのか。
それとも、昔からこういう人だったのに、自分の記憶の中で嫌な部分だけが大きくなっていたのか。
分からない。
分からないことが多すぎた。
「仕事に遅れる」
美月は時計を見た。
「送る」
「いらない」
「駅まででも」
「その車で職場の近くに来られたら余計目立つから、本当にやめて」
「……それはそうだな」
妙に素直に引かれ、美月は少しだけ肩の力が抜けた。
「じゃあ、今日は帰って」
「ああ」
怜司は頷いた。
けれど車へ戻る前に、美月を見た。
「一つだけ確認していいか」
「まだあるの?」
「質問じゃない」
怜司はそこで一度言葉を選んだ。
「俺は、お前を捨ててない」
美月の胸が痛んだ。
「……今さら、そんなこと言われても」
「分かってる。だから信じろとは言わない。でも、少なくとも俺はそう思って七年生きてきたわけじゃない」
「私は、捨てられたと思って七年生きてきた」
「それも分かった」
二人の間に、長い沈黙が落ちた。
怜司は無理に距離を縮めようとはしなかった。
美月も、何かを許すつもりはなかった。
けれど昨日までとは違う。
昨日まで、美月の中の七年前は完成した物語だった。
怜司に捨てられ、自分だけが取り残された。
辛かったけれど、答えだけは出ていた。
今、その答えが崩れ始めている。
「……行ってくる」
美月はそれだけ言い、駅へ向かって歩き出した。
後ろから追ってくる足音はなかった。
振り返らなかった。
けれど、角を曲がる直前、どうしても気になってしまった。
一度だけ振り返る。
怜司はまだそこに立っていた。
七年前に美月が何度病院へ通っても会えなかった男が、今は自分の背中を見送っている。
その事実が、ひどく皮肉に思えた。
◇
怜司は美月の姿が見えなくなってから、ようやく車へ戻った。
後部座席に座っても、すぐには発進を指示しなかった。
運転手も何も聞かない。
怜司はスマートフォンを取り出した。
連絡先の一覧から、一つの名前を探す。
神代沙耶。
母親の名前を画面に表示させたまま、指が止まった。
今すぐ電話をかければいい。
七年前、美月から手紙を預かったのか。
自分の名義で別れの手紙を渡したのか。
金を受け取ったという話は何だったのか。
聞きたいことはいくらでもある。
けれど、怜司は通話ボタンを押さなかった。
感情のまま問い詰めれば、相手は守りに入る。
経営者として何度も学んできたことだった。
七年前のことなら、なおさら記録を集める必要がある。
病院の面会記録。
当時の連絡履歴。
美月からの手紙が存在した証拠。
自分が入院していた期間、誰が何を管理していたのか。
そしてもう一つ。
陽翔。
美月は妊娠が分かったあと、自分に伝えようとしたと言った。
その言葉を偶然や聞き間違いで片づけることはできなかった。
怜司は目を閉じ、昨日見た少年の顔を思い出した。
六歳。
自分によく似た顔。
美月が妊娠を知った時期。
すべてが一つの場所へ向かっている。
それでも、まだ勝手に答えを決めてはいけない。
あの子には、あの子の人生がある。
自分の疑いだけで踏み込んでいいものではない。
怜司はスマートフォンを握り直した。
昨日まで知りたかったのは、陽翔が自分の息子かどうかだった。
だが今は、それだけでは足りない。
七年前、自分と美月の間で何が起きたのか。
誰が、何を、どこまで変えたのか。
それを知らなければ、父親かどうかを問う資格さえないような気がした。
怜司は母親の連絡先を閉じ、代わりに秘書へ短いメッセージを送った。
七年前、自分が入院していた病院の記録について、正式な手続きを踏んで確認できる範囲を調べてほしい。
送信したあと、怜司は窓の外を見た。
朝の街はもう完全に動き始めている。
七年前に終わったと思っていたものが、今になって初めて始まろうとしていた。
第27話 生きているよ 「ぼくのお父さんって、生きてる?」 その問いを聞いた瞬間、美月の中で、いくつもの答えが浮かんでは消えた。 まだ話すには早い。 もう少し大きくなってから。 今は知らなくていい。 ママがちゃんと考えるから。 どれも、以前の美月なら口にしていたかもしれない。 陽翔を守るためだと言い聞かせながら。 けれど今、目の前にいる息子は、何も分からない幼児ではない。 自分の過去に興味を持ち、自分と周囲を見比べ、大人たちの言葉を拾い、その意味を考え始めている。 何より陽翔は、死んでいるのかと聞いた。 そこへ嘘を重ねる理由はなかった。「生きてるよ」 美月は、ゆっくり答えた。 陽翔の指が、布団の端をつまんだまま止まる。「……生きてるの?」「うん」「ほんとに?」「本当」 美月は息子の手を握ったまま、もう一度はっきり言った。「陽翔のお父さんは、生きてる」 陽翔はしばらく何も言わなかった。 驚いたようにも見えたし、安心したようにも見えた。 でも六歳の顔の中には、どちらとも言い切れないものがいくつも混じっている。「じゃあ」 陽翔は少し考えてから言った。「どこにいるの?」 美月の胸がきゅっと縮む。「それは……」「遠いところ?」「遠くはないよ」 言ってから、自分で苦笑しそうになった。 物理的には。 少なくとも今は。 けれど、六年間という距離はどう説明すればいいのだろう。「日本にいる?」「いる」「同じ町?」「それは違う」「会ったことある?」 美月の呼吸が一瞬止まった。
第26話 僕のお父さんって、生きてる? 陽翔が父親の話をしたのは、何か特別な出来事があった日ではなかった。 むしろ、美月にとっては拍子抜けするほど普通の木曜日だった。 朝はいつものように目覚ましを二度止め、陽翔に「ママ、あと十分って言ったのに十五分寝てた」と指摘され、慌てて朝食を並べた。新しく買った上履きには陽翔が自分で名前を書き、最後の「翔」だけ少し右上がりになっていた。「これ、読める?」「読めるよ」「変じゃない?」「自分で書いたんだから十分上手」「ママより?」「そこは比べなくていい」「ママの字、急いでると怖いよね」「朝から喧嘩売らないで」 そんなやり取りをして、陽翔を送り出した。 仕事も普段どおりだった。 午前中は三人の子供のリハビリを担当し、昼には冷めた弁当を食べ、午後は記録入力に追われた。怜司からも連絡はなかった。 七年前の調査については、いったん新しい証言を待つことになっている。 だから美月も、意識して考えないようにしていた。 考えたところで、今すぐ答えが出るものではない。 誰が二人を引き離したのか。 どこまで意図的だったのか。 それを知ることは必要だ。 けれど、その答えだけを追い続けていたら、今の生活まで七年前に飲み込まれてしまう。 美月には仕事があり、陽翔がいる。 洗濯物もたまるし、冷蔵庫の牛乳は切れる。 人生は、大きな秘密があっても普通に夕食を要求してくる。 ◇「今日ね、翔太くんのパパ来てた」 夕食の途中、陽翔が唐突に言った。 美月は味噌汁をよそっていた手を止めた。「学校に?」「うん。忘れ物持ってきたんだって」「何を忘れたの?」「図工で使う箱。先生に『また忘れたの?』って言われてた」「陽翔も笑えないでしょう。この前宿題
第25話 誰かが、私たちを別れさせた 翌日の午後、怜司は七年前に神代家秘書室へ勤務していた女性と会っていた。 場所は本社ではない。 相手が神代家との関係を周囲に知られたくないと希望したため、都心から少し離れたホテルのラウンジを使った。怜司も秘書を同席させず、調査担当者だけを一人連れている。 向かいに座る女性は六十代半ばだった。 当時は沙耶の個人秘書を兼ね、神代家の私的な予定や連絡を扱う部署にいたという。「突然お呼び立てして申し訳ありません」 怜司が頭を下げると、女性は緊張した面持ちで首を振った。「いえ。ただ、七年も前のことですから、どこまで正確にお答えできるかは……」「覚えていないことは、覚えていないと言ってください。推測で埋めてもらう必要はありません」「分かりました」 怜司はテーブルの上へ一枚の資料を置いた。 当時の携帯電話契約に関する記録だった。「事故で俺の端末が破損したあと、着信制限と一部転送設定が行われています。申請者として、あなたの名前が残っていました」 女性は眼鏡を掛け直し、資料へ目を落とした。 しばらく見つめてから、ゆっくり頷く。「私の字ですね」「覚えていますか」「端末の手配をしたこと自体は覚えています。怜司様は事故直後、意識が戻っても体調が安定しておられませんでしたから、ご家族や病院と相談して、外部からの連絡を一度整理する必要があると……」「外部からの連絡を整理する、というのは?」「仕事上の電話、取材、親族からの連絡、それから……私的な連絡です」 怜司は表情を変えなかった。「特定の相手からの電話を止めるよう指示された記憶はありますか」 女性はすぐには答えなかった。 その沈黙だけで、怜司の胸の奥が冷えていく。「あります」 ようやく女性が言った。
第24話 その手紙を、俺は読んでいない 七年前の郵便物について調べ始めてから三日後、怜司のもとへ最初の報告が届いた。 朝八時半。 KAMISHIRO MEDICAL本社の執務室にはまだ人の出入りが少なく、窓の向こうでは曇った空の下を車の列が流れている。 怜司はコーヒーへ手をつける前に、調査担当者から送られてきた資料を開いた。 七年前。 交通事故で入院していた期間。 当時、怜司が住んでいたマンションの郵便物は、一定期間、本人ではなく神代家側の管理担当者が回収していた。 そこまでは予想していた。 事故直後は意識がなく、その後もしばらく入院が続いた。公共料金、クレジットカード、会社関連の書類、契約関係など、放置できない郵便物があったためだ。 問題は、その先だった。『回収担当者が郵便物を神代家資産管理室へ運搬。その後、業務・契約・金融関係と私信に分類し、必要書類のみ病院または秘書経由で本人へ届けていたとみられます』 怜司は文章を読み返した。「私信に分類……」 声に出す。 次の資料へ進む。 当時の簡易業務マニュアルの写し。 そこには、入院中の怜司宛て郵便物について、『本人への負担を避けるため、至急性・重要性を家族側担当者が判断する』 と記されていた。 怜司の眉が寄る。 本人への負担。 随分と便利な言葉だ。 見せるかどうかを、本人ではない人間が決められる。 ページをめくる。 当時の郵便物管理担当者は二名。 一人はすでに退職。 もう一人は現在も神代家の関連会社に籍がある。 調査担当者からの補足が続く。『当時の回収担当者の一人に、本人の同意を得たうえで聞き取りを実施しました。個々の郵便物について記憶はないとのことですが、「女性名義の私信」については、資産管理室へ渡した後、神代家秘書室側で確認し
第23話 七年前に送った手紙 日曜日の朝、美月は押し入れの奥から古い段ボール箱を引っぱり出した。 衣替えをするつもりだった。 それだけだったはずなのに、冬物のニットを探している途中で、奥に押し込んだまま何年も触れていない箱が目に入った。 ふたの端が少し潰れている。 大学時代のノートや昔の写真、使わなくなった小物をまとめて入れた箱だった。「ママ、何してるの?」 背後から陽翔が覗き込む。「冬の服出してたら、昔のもの見つけたの」「宝箱?」「そんな立派なものじゃないよ」「開けていい?」「待って。変なもの入ってるかもしれないから」「変なものって?」「大人になると、昔の自分を見るのがちょっと恥ずかしくなるものがあるの」「写真?」「写真も」「見たい」「見せません」「何で?」「ママにも人権があります」「ぼくもあるよ」「知ってます」 陽翔は納得していない顔をしたが、今日は友達と遊ぶ約束がある。 玄関からインターホンが鳴ると、興味はあっさりそちらへ移った。「来た!」「上着持って。あと四時半には帰ってくるのよ」「分かってる!」「お菓子食べすぎない」「分かってる!」「道路飛び出さない!」「それも分かってる!」 返事だけは勢いがいい。 美月は玄関まで送り、友人の母親へ頭を下げた。「いつもすみません」「全然。うちの子が陽翔くん来るの楽しみにしてるから」「四時半には迎えに行きます」「ゆっくりでいいよ」「ありがとうございます」 陽翔が振り返る。「ママ、宝箱勝手に全部見ないでね」「ママの箱なんだけど」「面白いのあったら残しておいて」
第22話 あなたは、本当に知らなかったんだね 公園で三人そろって走った翌日、美月はひどい筋肉痛になった。 朝、目覚ましを止めようと布団から起き上がった瞬間、太腿の裏に鈍い痛みが走る。「……痛っ」 思わず声が漏れた。 隣の部屋から、すぐに陽翔が顔を出す。「ママ、どうしたの?」「何でもない。ちょっと足が」「昨日走ったから?」「……たぶん」 陽翔の顔が、みるみる楽しそうになる。「ママ、弱い」「誰のせいで走ったと思ってるの」「でもママ、本気だったじゃん」「『負けるの怖いんでしょ』なんて言われたら、本気にもなるでしょう」「大人げない」「その言葉、誰から覚えたんだっけ?」「ママ」「教えるんじゃなかった」 陽翔は笑いながら、自分の足を何度か屈伸させた。「ぼく全然痛くないよ」「六歳と二十九歳を比べないで」「怜司さんも痛いかな」「さあ。あの人は一応運動してそうだし」「聞いてみようよ」「朝からそんなことで連絡しないの」「何で?」「大人には仕事があるからです」「ママも仕事あるじゃん」「だから今から準備するの」 そう言いながら立ち上がろうとして、また脚が痛んだ。 陽翔が吹き出す。「やっぱり痛いんじゃん」「笑わないで」 朝からこんな調子では、一日が長そうだった。 ◇ ところが、出勤して一時間ほどすると、今度はスマートフォンが震えた。 休憩時間に画面を見る。 怜司からだった。『昨日、走ったせいで少し脚が痛い』 美月は思わず笑った。 陽翔の言葉を思い出す。『私も』







